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まずは1年続けよう

1年続いたらブログ名どうしよう

哲学かぶれの弊害

 (記事自体は出来上がっていたのだが、更新する暇が無かった…)

 

 正直今までジャムとか眼中にも無かったけど、こんなに優秀な食品だと思っていなかったよ。リンゴジャム美味しいですほんと。菓子パン買うくらいなら自分でジャム使って簡単なおやつ作ったほうが美味しいし多分安いのかな。

 などと思いつつ記事を書いていこうと思う。

 今回は哲学にかぶれすぎることの弊害について。

 

 つまりどういうことかと形而上のことばかり考えていることである。形而上というのは、実態がなく目に見えない、というような意味だと思っておけば多分間違いではない。厳密に言えば「形而上の物事を考える」=「哲学する」ということではないのだが、イメージしやすさを重視して上のように書いた。

 自分はそういうことを考えるのが好きである。そして、形而下(実体ある)の物事について考えたがらない。形而下の物事というのは些細なことなのであり、それらを一々考えることがハッキリ言って面倒くさいし、しょぼくさく感じる。それよりももっと根源的な、あらゆるもの全てに関わってくるような形而上の物事を考えるほうがやりがいがある。というよりも、そうした核となることが解らず、表面を一枚一枚調べていくようなことに意味を感じないのである。

 

 なんて思ってた頃がありましたよ。つい最近まで。しかし結局ね、上でつらつら言ってるけど、「一々考えるのが面倒くさい」というのが本音なわけですね。実は思考停止の手段として形而上の物に思いを馳せてるというところはある。もちろん本人は真面目に考えているけど、じゃあそれで思考は進むんですか、という話。例えるなら「その場から動いてないじゃんか」と言われて「いや、ずっと足踏みしてるから動いて入るよ」と言ってる感じ。結局停止してるわけなんですよね。もちろん動いている人達もいるし、その場で足踏みし続けて足の筋力をつけることも重要なのであろう。しかし、それには相当の覚悟がいるわけで。

 意味あるとかそういうの抜きにして考えれば、形而下のことを考えるのも単純に面白いんだと思う。例えばお金儲けについてとか。自分は正直言ってそうしたことに熱心になってるのは憐れだとすら思っていた。だが、純粋に「どうすればお金が儲けられるのか」という仕組みを考察するというのも立派な考える行為である。形而下のものに対して疑問を持ち、考えるという行為の質自体は形而上のものを考える場合と何ら大差はないのだ。それが解った時の意味合いが変わってくるだけであって。

 

 中国の思想では、万物には同一の理があると言われている。つまり、意識の仕組みも、物理法則も、世界の成り立ちも、経済の仕組みも、全て同じ理屈によって貫かれているという考え方だ。この考え方を採用すれば、経済の仕組みについて一生懸命考え、それが本当に解った瞬間世界のすべての物事の理がわかるということだ。

 また、この記事の最初の方で「形而下の物事を考えるなど、表面を一枚一枚調べているようなものだ」と自分は主張した。しかし、そう考えるならば、表面一枚一枚を調べて調べて調べ尽くせば、気の遠くなるようなペースであるとしても着実に中心部には近づいていくということだ。あくまで一つの考え方だが、もし形而上・形而下がそのようなモデルで繋がっているならば、形而上の物事を理解するには必ず形而下の物事を理解することが必要になってくる。

 

 そもそも形而上・形而下に優劣をつけるのが間違いなのだ。先程も主張したが、いずれにせよ何かの理を考えるという行為そのものに意味があるのだ。

 というわけで、現実について考えてみようという気になったわけで。金儲けの理を考えてます。金なんか儲けてどうすんの?なんてのは全く関係のないことで、とりあえずその理屈を考えてみることに意味がある。まぁまず儲けて意味ないわけないしね。それでも自分が金いらねぇなら周りに還元すればいいだけだし。

 

 とりあえず解ったのは、学校行かず働かず、大したスキルもない人間が金儲けの理を考えているというのこそ、金儲けの理に反するということ。